日野原重明105歳死去!最期は聖路加国際病院じゃなく自宅を選択!

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日本のお医者さん、日野原先生が選択したのは…
医師ではなく、人間であることでした。
日野原重明さん(105歳)が7月18日に
亡くなりました。
日本の名医が最期に選んだ場所は…
聖路加国際病院名誉院長でありながら
病院ではありませんでした。
日野原先生の活躍と一緒にまとめていきます。

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日野原重明死去ニュースは本当!日本の医学を創り続けた経歴がすごい!

 
現在の医療体制の礎を築いたと言っても過言ではない、
聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さんが
7月18日6:33、自宅で息を引き取りました。
105歳でした。


[出典;Yahoo!ニュース]

105歳と言う年齢でありながら生涯現役医師として活躍されたいた日野原先生。
簡単な日野原先生の経歴についてまずはまとめていきます。

 

日野原先生は1911年(明治44年)10月4日生まれの105歳。
山口県出身で、大学は1932年に京都帝国大学(京都大学)医学部に現役で合格しました。
ここから日野原重明さんが医師として活躍が始まります。

日野原先生は医学の道を目指した時から”内科医”になることを決意しており、
卒業後は内科学の教授を夢見ていましたが、
大学に入学してわずか1年で結核に罹患してしまいます。
長期療養を余儀なくされ、1934年に復学しますが、
著しい体力の低下のため、体力的に務まりそうな精神科医を目指します。

しかし、京都大卒業後は附属病院の三内科の医局に入局し、
この日から”内科医・日野原重明”としての偉大な一歩が始まりました。

入局後は副手として無給勤務、研修でも見習うところが無いと
1938年に退局しました。

その後、大きな病院の内科医として患者さんと向き合いながら
1939年には京都帝国大学医学部大学院博士課程に進学しました。

1941年に上京し、当初は東大病院の就職を考えていましたが、
学閥が激しいという理由で、勤務先を聖路加国際病院にしました。

 

1951年には聖路加国際病院内科医長に就任しました。
その後も聖路加国際病院でご活躍されていました。

特筆すべきはここからの経歴です。

1970年、福岡で行われていた学会の帰りの機内でハイジャックにあいます。
国内初の”よど号ハイジャック事件”です。
もちろん機内には日本人の乗客ばかりでしたが、
ハイジャック犯は”英語”で話しており、
日野原先生はその会話を訳していたそうです。

赤軍の要求はエスカレートし、
人質を麻の紐でくくっていたそうです。
日野原先生はそんな時でも冷静かつ、客観的にみており、
犯人にバレないようにメモで
”機体を安定させるように”などと言った指示を出していたそうです。

後に日野原先生はこの時のことを
「犯人と人間的な関わりを持とうとした。
けど、それは若い時の考えだからできた。」
と、自身の決断は決して成功法ではないと話していました。

 

また、1995年に発生した地下鉄サリン事件の際には
640人もの被害者を受け入れ、
救助活動にも医療人として大変に尽力しました。

こんなに多くの患者を受け入れることが出来たのも
1992年に当時の総合病院としてはまだ普及していなかった
広大なロビーを設けていた為、対応が出来たのだと考えられています。

 

そして、今となっては当たり前になっている”人間ドッグ”。
これを民間で初めて提供したのが日野原先生でした。
1954年、聖路加国際病院が始めたのです。

日野原先生がいち早く”予防医学”に力を入れていたことがよく分かる経歴ですね。

そして、こちらも今となっては当たり前となった”生活習慣病”。
この名付け親が日野原先生なんです。
1997年頃から生活習慣病という名称に変わりました。
それ以前までは”成人病”と呼ばれていました。

今や誰もが知っている医療の知識を
日野原先生は約80年の医者人生をかけて創り上げたんですね。

日野原先生が日本に居なかったら…
もしかしたら日本はもっと医療発展途上国だったかもしれませんね。

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日野原重明死去105歳最後の選択!最期に過ごした場所は自宅に決めた!

 
長年医療人として患者と向き合い、
予防医学普及に尽力し、
病院の在り方について考えていた日野原先生。

残念ながら105歳で亡くなりましたが、
100歳を過ぎても日野原先生の元には講演会の依頼がひっきりなしにあり、
2~3年後までスケジュールは埋まっていたと言われています。

日野原先生自身も2020年に東京でオリンピックが決まった際に
「オリンピックが決まったならやらなきゃいけない事があると思う」
と、110歳まで生きることを信じてやみませんでした。

しかし、日野原先生の想いとは裏腹に
今年の3月頃から消化器系統の機能が著しく低下し、
体調も思わしくない日が続きました。
その時、日野原先生が選択した治療方針…
それは、自宅療養でした。

人生のほとんどを病院で過ごし、
多くの患者さんに向き合ってきた日野原先生。
最期の時くらい自宅でゆっくりしたいという想いだったのでしょうか。。。

 

現・聖路加国際病院院長の福井次矢先生は
日野原先生に”経管栄養が必要”と診断しました。
しかし、日野原先生の答えは「NO!」

延命治療を望まず、本来あるべき人間の姿を望んだそうです。

在宅医療で自宅に居る間、
日野原先生はとろみのある食事やお水を口にしていたそうです。
最後まで”経口摂取”で生きていきたいと強く願っていたのかもしれませんね。

体調が急変したのは7月14日でした。
ついに言葉を発することが困難になった日野原先生は
意志疎通を”うなずくこと”でしか伝えられませんでした。

そして7月18日6:33、日野原先生は呼吸不全で亡くなりました。

 

長年日野原先生と時間を共にしていた福井院長は
「日野原先生は常々『死は生き方の最後の挑戦』
『命に感謝して死んでいけたらどんなにいいだろう』と話していた。
望ましい人の生き方を実践して生を終えたのではないか。」

「『あと10年は生きたい』と話しており、
米国にある医師養成過程「メディカルスクール」の日本での実現を夢見ていた。」
と、偉大過ぎる故人を惜しんでいる様子でした。

 

医療に携わっていなくても
”人間ドッグ”や”生活習慣病”など、
誰もが知っていることを生み出した日野原先生。

偉大過ぎる日野原先生のことを
ひと言、ふた言では語れませんが、
今は敢えて一言だけ…
「おつかれさまでした」
きっと国民全員がそうココロの中で想っていることでしょう。

日野原重明先生のご冥福をお祈り申し上げます。

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コメント

  1. 西村 嘉忠 より:

    日野原重明先生の日本医学界の御尽力を受け継ぎ発展するため、兼ねて寄り話されていた。中庸を重んじて『正義ある公正公平平等な道徳心、倫理観ある医療提供』を、骨子に邁進し命有る限り、使命を果たして参ります。

    日野原重明先生、衷心からご冥福をお祈り申し上げます。
    ありがとう御座いました。

  2. ももか より:

    おじいちゃまが亡くなった。
    大好きだった、おじいちゃまが。
    本当に悲しいし辛い。
    でも、きっと天国でおばあちゃまに会って仲良くしているよね。
    おじいちゃま本当に大好きだったよ。

    おじいちゃまの孫で本当に良かった。

  3. 大井 裕子 より:

    夜中、NHKスペシャルで目が覚め、引き込まれるように番組を見入り、何度も涙を拭う。100歳の日野原先生にお会いできたら泣いてしまうと思った。全てにストレートに感銘を受けー
    ふと、2011年放送の字幕が目にとまり、日野原先生追悼の番組であることを知る、、、
    かなしいです。かなしいですが、今あなたに出会えたことが奇跡です。まだ遅くない。遠い遠い私ですが、あなたの尊すぎる魂を人として受け継いでいくことを誓います。

  4. こやままさこ より:

    先生はお優しいお人柄の方でした。学生の時、先生と食事をご一緒させていただいた時、先生のお宅に行かせていただいた時、奥様にサンドイッチを作っていただき先生のお優しい一面を見せていただき、ウイリアムオスラー博士の水平の心を熱く語られ、その後先生には、教会、学校、学会と幾度かお目にかかりました。最後は広島女学院中のホールの前で御講演に来られていた時、私が聖路加で学部と院でお世話になりましたと申し上げたら、先生は私のような者にもにこやかにほほえんでくださいました。感謝しております、

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